「没後30年 鈴木賢二展」/栃木県立美術館を訪問

 栃木県立美術館で開催中の「没後30年 鈴木賢二展 プロレタリア美術運動から戦後版画運動まで」に足を運びました。
 
 戦前の山本宣治のデスマスクや戦後直後の産別会議機関紙の挿絵、ベトナム戦争や米軍基地反対運動を描いた木版画などが展示されています。農民や労働者、子どもたちに心を寄せる作品が魅力的です。
 
 鈴木賢二は、戦後、栃木県の共産党組織の再建でも重要な役割を果たしました。
 
 展覧会は3月21日まで。
 

「しんぶん赤旗」3月2日付・9面より
働く人々への愛と関心/鈴木賢二展
 
 現在、栃木県立美術館では、版画家、彫刻家として活躍した鈴木賢二(1906~1987)の回顧展「没後30年鈴木賢二展昭和の人と時代を描く――プロレタリア美術運動から戦後版画運動まで」を開催している。
 
 鈴木賢二が美術の世界で歩み始めたのは、旧制の栃木中学校を卒業して上京する1924年で、その創作活動は亡くなる1987年まで続いた。まさに昭和という時代と重なり、その創作内容も昭和とともにあった。第2次世界大戦を経て冷戦、安保闘争へとつなかっていく激動の歴史は、そのまま作品から読み取ることができる。
 
 プロレタリア美術運動に興味をお持ちの方には、1929年に日本プロレタリア美術家同盟書記長となり、1930年に雑誌『アトリエ』に「プロレタリア美術概論」を寄稿した人物として記憶されていようか。象徴的なのは、刺殺された山本宣冶のデスマスクを制作したことだろう。そして、第2次世界大戦中は栃木に帰郷し、彫刻家として高い評価を得た。東京美術学校で彫刻を学んだことを生かそうとしたのだろう。その主題の根底には、農村で働く人々への深い愛と関心があり、戦後の版画ともつながる。だが、この時代、他の美術家だちとともに陸軍美術協会にも在籍した。
 
 戦後の活動は、飯野農夫也や滝平二郎など仲間たちとの、北関東を中心とした版画運動によって開始される。それは魯迅と中国の木刻運動に導かれたものであった。やがて、こうした活躍のなかで、鈴木賢二はいよいよ美術家としての頂点を極めていく。
 
 ここに紹介する《女》のように、迫力ある木版画の数々が生まれる。大判の版面に刻まれた細やかな線の集積によって、繊細に陰影の濃淡を描き出しつつ、太く直線的な輪郭線を大胆に出現させる。その斜め下から見上げるクローズアップの構図で、柔和な表情ながら、強い意志を視線に込めた農婦の相貌をとらえる。この表現力は、今こそ再評価に値しよう。ぜひ、この機会に、鈴木賢二の豊かな造形世界を味わっていただきたい。
 
木村理恵子(栃木県立美術館学芸員)
 
21日まで栃木県立美術館(宇都宮市桜4の2の7) 電話028(621)3566